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| 私の茅ケ崎 |
小学校のころの遠足は、父兄のつきそいがあった。先生が人数を調べるために手を上げさせるのだが、学年が進むにつれて、少しずつ少なくなって行くのに、六年生までついたのは二、三人で、その中に私がいた。それが当たり前と思って母に聞かないでも手を上げていたのだが、修学旅行からやっと一人前になった。
けれど学校を卒業しても、芝居見物や旅行も父兄同伴だったのだから、如何に過保護だったかわかる。
その私がたった一度だけ、一人で泊りに行ったのは、二年生の夏の事だった。裏の家の小父さんが茅ケ崎の人で、上の子の勇ちゃんが私と同学年で、弟の勝ちゃんとよく我が家にも遊びにくるので許してくれた。電車からいつも見るのだが、初めて農家の生活を知り珍しかった。お腹によくないからと、食べさせてもらえなかった「とうもろこし」を山盛り出されたり、取り立てのメロンやトマトのおいしかった事、泳ぎ疲れて熱い砂浜で腹ばいになると、ぽかぽかとお腹が温まって気持ちが良かった。
「もう上がりなさい」とか「陰に入りなさい」とか言われないし、近所の子供達とも仲良しになって、一日中遊んでいた。
けれど、夜になると熱が出て、動けなくなってしまった。次の日も起きられず、父母が呼ばれて、あわてて迎えにきた。東京に帰り、かかりつけのお医者に行ったら「軽い日射病です」と言われ、薬を全身にぬられ、氷で頭をひやして寝かされた。あまり外に出ない子が、一日中太陽に照らされたのだから無理もないが、小父さんはどんな気持ちだったか、悪いことをしたと思っている。
何日かして火ぶくれもおさまり、皮がむけた顔は我ながらおかしな顔だった。これで又一人での泊りは駄目になったのだが、あの自由な、解放された時間は目がくらむ様な楽しさだった。まだ農家が点在するだけの昭和四年ころの話です。
仲良しの兄弟は、そろって海軍を志願し戦場に行った。初めて桃割れに結って撮った写真を慰問袋に入れたのだが、返事もなく、こちらも戦災に逢って今だに消息はない。私達の年代はだれでも、二十年を境にして生活が変わってしまったようだけど、あのなつかしい茅ケ崎の海はいつか再び訪れる日まで、私を覚えていてくれるでしょうか……。
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| 写真 |
いつもはあまり気にならないが、分友さんの書かれた本を読むと年代順に写真が沢山載っているのがある。そう言うのを見ると少し羨ましくなる。私は昭和二十年以前の写真を失ってしまったからだ。辛うじて戦災に逢わなかった知人から返して頂いた何枚かがあるだけなのだから。
その貴重な写真の中に三才と七才のお祝いのがあったのが特別にうれしい。それは母の若き日の姿があるからだ。子供心にも恰好が良いなと思った富士びたいに、丸まげが良く似合って、ししゅうの入った半襟をぽってりとのぞかせている。今の私よりずっと若い母の笑顔がそこにある。明治十九年生まれでチャキチャキの神田ッ子だった母は身だしなみがよくて、鏡台の前で日本かみそりを使いながら、いつもきれいに眉を剃って居て、側にいるとついでに私のも剃ってくれた。だから七才の私の顔には眉がない。母は一生そうして剃っていたのだが、やさしい女らしい顔だったなと思う。
私は早生まれで七才のお祝いの時は一年生だったから学校に入っても剃って貰っていたのだとわかる。焼けていなかったら、何年生で眉を立てたかわかるのだが一寸残念な気がする。
母の晩年の写真の中にも好きなのはあるが、陽気で勝気なのに、涙もろかった母の若かった頃の面影を、終生私の胸の中に大切にしまっておこうと思っている。
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| なつかしの王子電車 |
滝野川の家から王子駅迄は十五分歩けばつく道のりだった。鉄道省の電車なので省電が高架を通り下は私鉄の王子電車が通っていた。市電は運転手がヒモを引くと、チンチンと金属的な音がしたが、王電はボー・ボーと男性的な低音で、子供の頃だから日曜日は両親が朝いつもよりおそく起きるので、我慢してふとんの中で目をパチパチさせていると、ポン・ポン・ポンと荒川を渡る船のエンジンと、王電の音がハッキリ聞こえる時は戸を開けないでも雨と知れた。
昭和二年に三ノ輪から赤羽まで路線が延びた。たしかこの時花電車が何台も出て、母に連れられて見に行った覚えがあるが、それが今上天皇ご即位のご大典のと一緒になって開通記念なのか、判然としないが、きれいな人形をつけた電車が通り過ぎるのをうっとりと眺めた記憶がある。
王子から三ノ輪に向うと川に沿って少し行きテニスコートが何面もある工場と住宅の間をぬって「栄町」につくと現在は紙の博物館があるがここに王子製紙があって我が国製紙産業発祥の地であったが、公害をさわがれて北区から消えてしまった。北区には大日本印刷、板橋には凸版印刷や関連会社のビルが林立して、紙とはやはり深い縁がつきない。次の「梶原」あたりから商店が立ち並び「荒川車庫」で乗務員が、交替する。
今はワンマンになったが、前は気の良い車掌さんが前に大きなガマ口の様なものを下げて、切符を売っていた。顔見知りも多く、年配者ばかりなので人あつかいもうまく、飛鳥山のお花見などで混雑する時も入口にいるとやんわり真ん中迄おしこまれても腹を立てない様に持って行く話術はたいしたものだった。
「西尾久」ここから下りて荒川遊園に行った。夏休みが近くなると小学校の門前で割引券が配られると、だいじに家に持って帰り、休みがくると近所の人と団体の様に連れ立って行った。子供達はプールで泳ぎ、浅い池に時間がくると金魚を放すので、友達と二人で手ぬぐいを広げてすくってお土産にした。小さなバケツに入れて電車にゆられ暑い道を歩くので半分位も駄目になった。
「小台」から下りて荒川に出て大きな和船に乗って千葉に潮干狩りに何度も連れて行かれた。位置によって四本にも三本にも見えるお化けエントツを見ながら東京湾に入り、目的地につくと漁師さんが杭につないで船を止めると、皆が用意の水着で泳ぐ、しばらくすると干潮になり、それから貝を掘り始める。
次の満潮が始まり、少しづつ水が深くなると大きなハマグリが砂から浮き上がって面白いように取れた。父に、小さい頃から泳ぎを習っていたので水は怖くなかった。父と一緒に船上で食べた母の心づくしのおべんとうは今でもおいしかったと思う。
それにしても千葉の海は底の砂まで見えて漁師の小父さんが、もぐって見せたらすっかり見えたが、いつからこんなによごれてしまったのであろうか。やり切れない思いがする。
次の「宮ノ前」文字通り神社の真前で、お祭りや七五三などお店が出て賑わう。「熊の前」に親戚がいるのでここで下りる。尾久銀座と言うせまい道にお店が続くが戦災に逢わなかったので昔のままの店がある東京でも数少い所ではないだろうか。第二の故郷赤羽だって建物も道路もすっかり変わって前の面影は全然なくなってしまったのだから……。
終点までは、あまり行かないが、ここまできたから書くと「東尾久三丁目」「町屋一丁目」「荒川七丁目」「荒川二丁目」「荒川区役所」「三ノ輪」になる。
昭和十七年に東京市が売収して市電となり、車両は五十三あって、ともに千二百八十六万円であったとか。七銭出せば東京中どこへでも行けたのが夢の様だ。
現在は早稲田から三ノ輪迄の荒川線になり、バスは時間通りにこないのに昔通りにゴトゴト走っているうれしい電車なのです。 |
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