ひまままWEB

みさおおばあちゃんがふだん記というグループに発表した文章を掲載します。

*みさおおばあちゃんは、ひまままさんの祖母、まめまめにとっては義祖母です。
*表記できない漢字を改めた以外は、漢字・文法の間違いと思われる箇所も原文のまま掲載しています。
*個人名をイニシャルに直したところがあります。
















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故郷の町
 ふだんぎで知り合ったNさんと私は北区の生まれです。といっても当時彼女は王子区、私は滝野川区で戦後合併して無味乾燥な北区になったのだが、駅の周辺は東洋一と言われるアーケードがあり十条銀座の名にふさわしい賑やかさだが、位置としては、Nさんの家は造兵廠の後側で、写真で見るとハイカラな、当時では珍しいコンクリート造りの大きな洋風の薬局だった。
 造兵廠の前側に私の家があり、商店は何軒かあって当座の買い物は不自由しなかったが、夕方には十五分程歩いて板橋駅の近くまで買物に行った。寿徳寺があり静かな住宅街だったが、朝夕は造兵廠の工員で道がふさがる程すごいラッシュになった。如何に多勢の人が働いていたかわかると思う。
 赤羽線を渡るとお成り橋がある。加賀様のお下屋敷のあった所で、今加賀町と呼ばれているが、きっと百万石のご威勢で「下に下に」と渡ったのだろう。
 小さい頃の話だが、この橋の下で夜になるとウナリ声がすると評判が立ったそうだ。「きっとバラバラ死体が埋められているのだ」とか「昔お手打ちになった者の怨霊がさまよっているのだ」などと大さわぎになり新聞にも取り上げられたので、警察でも放っておけなくなり調べたら、大山鳴動蛙一匹で犯人は食用蛙だったそうだ。
 その辺一帯は三五ッ原と言って踏み切りの所に家が五、六軒あるきりで兵隊屋敷といわれる陸軍工科学校がぽつんとあり、朝は勇ましい起床ラッパや夜は淋し気な消灯ラッパが聞こえた。遠くの方の白い建物は当時九中という学校が見えるだけの広い原ッぱだった。
 春は切り出ナイフとざるを持って嫁菜や芹つみに、秋はいなご取りや十五夜様に上げるススキを取りに行ったが、友達と連れ立って行くのに、母は必ず「人さらいが来るから早く帰るのよ」と注意した程、淋しい所だった。
 疎開から帰った二十七年に前に住んでいた所をあちこち回って見て、一番驚いたのは此処で、びっしりと家が建ち昔の話をしたら笑われそうで今浦島とはこの事を言うのだなと思った。
 砲兵工廠もアメリカの野戦病院になったり、七十年安保の時は過激派が大あばれして、民家も相当な被害を受け一時騒然としたが、今は都営住宅が沢山並び、洗濯物がベランダで踊っている「白い物を干しては敵機の目標になるから」とのお上のお達しがあったなんて遠い昔話になった。
たけくらべ
 どうしてあんなに明治文学に溺れたのかわからないが女学生の頃よく読んだ、仲の良かった彼女も文学少女だった。国語の本は和とじで、文は今考えてもなかなか趣きがあった。昭和十年代の初め頃の事である。「たけくらべ」が好きで、「廻れば大門の見返り柳いと長いけれど」の出だしの所は今でも暗記している。卒業してお裁縫も同じ先生につき、黒じゅすに麻の葉お七帯を縫って、一寸大き目に結び美登利をきどって歩いた。針供養に浅草の淡島様にお詣りし映画華やかなりし頃の六区をそぞろ歩きした。仲見世で花の沢山ついたかんざしに見とれ、舞扇や踊り衣装の店をのぞき甘味処の梅ぞのに入る。彼女はおしるこ私は甘いのが駄目でおぞう煮がおきまりだった。
 二十才になったばかりの時家にきて結婚する事を告げた。「三社祭りもほうづき市もいつも一緒だったのにもう駄目ね」と言うと彼女はしあわせ一ぱいの顔でうなづいた。けれど婚家先は千束町だった。私はびっくりした。「たけくらべの方じゃない」と言うわけで一度たづねていった。観音様の後の昔ながらの古めかしい家が建ち並ぶ表通りに面した金物屋さんだった。お姑さんもやさしそうだし、ご主人も良い人だったけど、お店が急しそうで、ゆっくり話も出来ず「ひまがあったら私の家にきてね」と言って別れた。一人で歩く仲見世はにぎやか過ぎて余計孤独におちいった。手紙のやり取りはしていたのだが、戦争もはげしくなってどちらからとなく音信が途絶えた。山形に疎開して七年、東京にもどってすぐ探したのだけれど、その家は見つからなかった。戦争さえなかったら一生つきあえると思ったのに、友を失なった淋しさはやりきれなかった。
 多くの本を焼いてしまった私に次男が樋口一葉全集をプレゼントしてくれた。小説が二十一編と日記が十四と書簡集だった。子供達もそれぞれ巣立った今娘の頃に胸をときめかせた本を読んで、あの時代の友を偲んだ。もうお互いに年をとり、二度と逢えないでしょうが、あなたも私の事を思い出してくれるでしょうか。
大正琴
 向いの家から、この頃珍らしい音が聞こえてくる。それは大正琴なのです。まるで子供の頃に戻ったような、とてもなつかしい気がします。今ならピアノ位どこの家にでもあるが私の育つ頃はせいぜいハーモニカか、木琴か大正琴だった。黒ぬりで花の絵がついて、弾き終ると爪を琴の中に入れてしまうので、今度弾く時は逆さに振って出すのに苦労した。やさしいので知ってる歌はなんでも弾けたがあまりにも単調であきてしまって、次第に戸棚の中に入れる事が多くなり、遂に出す事もなくなった。
 それが、何十年も過ぎてから、又耳に入ってくるとは思わなかった。奥さんは熱心で毎日の様に弾いた。十三夜・野崎小唄・枯れすすき・名月赤城山・国境の町など、なつかしのメロディーばかりなので、それを聞きながらぬい物や編み物をしながら、つい、つられて歌ったりして、楽しかった。なにしろ近所はニューファミリーばかりなので、年配の人と逢うと、うれしくなって、立話で植木の話をしたりして我が家へも遊びに来てくれた。
 まだ奥さんがこちらに住まない一年前の事になるが、お向いの家とは一寸した事でかかわりあった。息子さんは次男だそうで、その若奥さんが身体が弱くて一年生の女の子を残して亡くなった。近所なので、報せがきて夜八時過ぎに行ったら、本郷の東大病院から帰ってくる言うのに、何の支度もなかった。仲の良い人の家もないと言うので、私は両親を見送っているので、仏壇があるのでお位牌に少し淋しいでしょうけどご免なさいましと、あやまってお線香たて、ローソクにローソク立て、鐘に小机と一式持って行った。暗い庭から残っていた黄色の菊を切って行った覚えがあるから、秋も終り頃だったと思う。
 それから奥さんは長男の家から移られたのです。六十才をいくつか出ていられるのだが身ぎれいで、自転車でサッソーと買物に行かれる姿はとても若く見える「友達が居ないので淋しいから弾いていたのよ」と言われた。色々聞くとこの方も大変なのだとわかる。先日呼ばれて遊びに行ったら、私にも借してくれた。実に四十何年ぶりで爪を取った。何度か間違えたけどなんとか弾けた。あの頃は戦争が起きるなんて夢にも思わなかった長閑な時代で、その時と同じ様な澄んだ音色が、あたりにひろがった。
 「息子が一年もしたら、再婚すると言うけど、今度は丈夫な嫁がくると良いわ」と話されたが、もしもそうなれば長男の家にもどるから、大正琴は聞けなくなるし、一寸淋しい気もするが、一日も早く両方の家が元の生活にもどれる事を願っている。
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目次


私の茅ケ崎
写真
なつかしの王子電車
故郷の町
たけくらべ
大正琴